渋沢栄一を知る

渋沢栄一は満91歳までの生涯のなかで、関係した企業数が約500社、社会事業数が約600という膨大な事業に関わり、本業以外に慈善活動も勧め、「日本の資本主義の父」と呼ばれた人である。

「論語と算盤」でビジネスといえ公益を追究することが大前提であると説く渋沢栄一について本人の生涯や生活について学ぶ。(渋沢栄一記念財団 渋沢栄一を知る事典より要約)

・・・・ブログとしてはだいぶ長文になってしまいました・・・・


1.生涯

 ①生い立ち

  (生誕地と生家)

  栄一は、1840年に武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)の農民の子として生まれた。この地域は、北方に利根川が流れ昔からよく氾濫し、河道の変遷も激しかった。同村は水田が僅かで、ほとんどが畑であった。そのためこの周辺地域では藍作・藍玉製造が盛んで、上州や信州に販路を持つ家が多かった。近隣に船客の乗継場であり船荷の積替え所となっていた利根川中瀬川岸があり、水運を利用した廻船問屋や旅籠などが建ち並んでいた。

また、同村の南方の中山道深谷宿は江戸まで75kmほどで、旅人の往来や人馬による輸送も盛んであった。そのため、政治経済・文化などの情報も入りやすい環境に合った。渋沢家の家業は、麦作や養蚕、藍葉を買い入れて藍玉に製造して、信州や上州などの紺屋に販売していた。父の市郎右衛門は、家業については非常に厳格だが、物惜しみせずに親戚や困っている人々の世話や支援をする人であった。母えいは、栄一を慈しみ、困った人には物を施すなどして慈悲深い人だった。特に、ハンセン病を患っていた女性に対して、食事の世話や一緒に入浴することもあり、栄一が病気がうつると注意すると、母は、「お医者に聞いたら映らないとのことだった」といって、世話を続けたという。

後年、栄一が社会福祉事業・医療事業に取り組むことになったのは、母の影響も大きかったと思われる。

(少年時代)

 栄一が書物を読み始めたのは、7歳のころだったが、父から漢文の素読を学び、「大学」、「中庸」、「論語」巻2まで習った。その後、尾高惇忠のもとに通い、「論語」をはじめ、「四書五経」を学ぶ。

 12歳ころには「通俗三国志」、「南総里見八犬伝」を好み、20歳までに「日本外史」、「十八史略」などを読んだ。学びや読書などを通じて、自分は天下国家のために何かをしたいという意識を強くしていった。また、15歳ころには、従兄の渋沢新三郎に神道無念流の剣術を学び、出稽古をつづけ、剣術の腕を磨くため上野国・下野国を廻り熱心に修行した。家業の手伝いもするようになり、藍葉の買い付け、藍玉※1にして紺屋(こうや)との取引、また17歳ころには注文を取るために得意先回りを栄一が引き受けて廻った。家業への熱意は強くなり、近隣の村々からの藍を買い集め、作った人々を招待して番付けを作成した。そして藍の出来に応じて席順を決め、一番の人は城跡に据えて、競争意識を高め、品質の良い藍作りを奨励した。※1藍の葉を発酵、突き固めた染料  ※2染め物を生業とする家  

(青年時代)

 17歳の時、岡部藩より血洗島村は御用金※3を出すよう指示され、生家は500両を引き受けることになり、この時に栄一が父の名代として、岡部陣屋に出頭した際、代官の高飛車な態度に憤りを覚え、社会の矛盾を感じ始めた時期だった。                ※3 幕府・藩が財政難のため、商人・農民に臨時に課した金

 このころ、師匠の尾高淳忠の尊王攘夷思想の影響を受け、長州藩の志士などと交流して当時世や幕府批判について論じ合うなか、深く尊王攘夷思想※4に共鳴していく。

その後、江戸に出て儒者の海保漁村塾、北辰一刀流千葉道場などに出入りして、天下の志士と交流して味方にした。そして、幕府の腐敗を洗濯して(これは坂本龍馬と一致する言葉)国力を回復しようと、尾高を含む5名で実行計画を練ったが、幕府に捕縛される危険性があったため、中止した。

※4 君主を尊び、外敵を排斥する思想(水戸学や国学の影響を受ける)

②人間・渋沢栄一を紐解く

(渋沢栄一のプロフィール)

 身長151.5cm A型、食事は好き嫌いなく何でも食べた。晩年は芋や茄子を好み、甘いものは好き。タバコや酒はあまりやらず、若い頃は囲碁や将棋もたしなんだが仕事が忙しくなり、我慢してやめた。性格は温和であるが、没後に尾崎行雄が栄一の特徴を次のように述べている。

  一、頭が鋭い

  二、勇気があり、度胸の据わった人である

  三、勇断可決、果断決行、よく論じる

  四、執着力が強く、事業の遂行力がある(よくあんなに沢山の仕事ができたものだ)

  五、親切心に富んでいる

(日常生活)

 栄一は生涯、数多くの企業・団体の事業活動に関わり、日々の生活は非常に多忙を極めていた。古希になると、多くの企業・団体役員の職を辞し、社会事業を活動の中心に据えた。喜寿で、すべての役員等を辞しても、相変わらずに忙しい毎日を送っていた。

 80歳を超えても栄一の日常は、朝10時から夜10時までは忙しい毎日であったと伝えられている。

 健康の秘訣は何だったのだろう?

 彼は、ある雑誌社からの健康と食事についての質問を受け、「特別なものはないが、事業の損失や不幸に際しても決して屈託せず」ということが健康を保つことであると言い、食事については、「甘味・脂肪多い食物を好み、晩餐では天ぷら・けんちん汁・芋や茄子の野菜を好む」と回答している。

 晩年には1日2食を規則正しく守っていたとされる。

(趣味・余暇)

 趣味は多くないと答え、将棋・碁・義太夫・芝居見物、しかし生涯の趣味は「書と漢詩」だった。

(住所と邸宅の変遷)

 埼玉県の血洗島村に生まれ、パリ万博使節の随行員から帰国後は静岡で家族と共に生活する。1869年、民部省租税正に任じられ、東京の湯島天神下で家を求め、新生活をスタートさせる。1873年、一家は裏神保町へ住まいを移し、その後、第一国立銀行総監役として兜町に移り住む。この頃、近代的な銀行制度の定着のために奔走していた。1876年、深川福住町に住まいを新築する。

 1877年、飛鳥山に4000坪の土地を購入し1879年飛鳥山艇を完成した。この私邸は、来訪者が多く、接待接客の場としても利用された。

(家族・家法)

 栄一は、1858年に尾高淳忠の妹の千代と結婚し二男三女を設けたが、千代が1882年に他界したため、豪商伊藤八兵衛の娘兼子と再婚して生涯を共にした。

 1891年に渋沢家の家法を制定し、同族を集めてこれを示した。また同時に家訓(三則・三〇ヶ条)も定めて、併せて渋沢同族会(各家の重要課題や財産管理の相談・親戚知人の冠婚葬祭等の対応)の運用も取り決めている。


3.活動・実績

①20代

 従兄の渋沢喜作と共に郷里を離れた栄一は、一橋家用人である平岡円四郎の推挙で京都一橋家に雇われた。当時、京都治安のため朝廷より禁裏御守衛を命じられた一橋慶喜に対して、領内の経営に関して直接提言した。その後、慶喜の薦めにより約1年半のパリ行きの一行に加わることになり、西郷隆盛・桂小五郎(木戸孝允)など撹拌の有力者との人脈づくりに役立った。

 1867年、徳川昭武一行のパリ万博に随行した栄一は欧州各国の先進技術、社会・経済に関する組織、制度に触れ実体験できた。特に三つの事項が印象に残っている。

 一つ目は、ベルギーの製鉄の生産に関する事、二つ目はフランス到着後に、ナポレオン三世が昭武一行の世話役を務めた銀行家のフリュリ・エラール(商人)と陸軍大佐ブレット(武士)が対等の立場である事であった。「官尊民卑」の風潮が強い日本との大きな違いを感じ、それを打破したいと考えるようになる。三つ目は、フランスでエラールの薦めにより、昭武の留学費用を捻出するため、政府公債と鉄道社債を実際に購入することで、株式・社債を運用する西洋の「合本主義」の制度や思想を学んだ。

 その後、「合本主義」を試みて、静岡商法会所で商社と銀行を合わせた業務を行った。

1869年、民部省租税正として新政府に勤務することになり、旧幕臣のメンバー(前島密ら10名)と近代日本の国づくりにとりかかった。

 栄一は、第一国立銀行を設立する一方、東京養育院設立にも関与した。国立銀行の運営については民間人が当たるべきであると考え、政府の立場である自分は職を辞して経営にあたりたいと考えたが、伊藤博文らに遺留された。しかし、新政府の中で最高実力者である大久保利通とは、国家財政の考え方の対立があり(井上薫とともに)明治政府を辞した。

 それ以降、亡くなるまで若干の政府委員を務めた以外に二度と官職には就かなかった。

②30代

 19世紀後半は、日本の最大の輸出品は生糸で、生糸貿易は貴重な外貨収益源であった。しかし、生糸の品質が他国(フランス・イタリア)より劣っていたため、1870年フランス人技師と契約を結び養蚕業の盛んな上州富岡に大型の繰糸機をフランスから輸入して、富岡製糸場を設立した。栄一の従兄である尾高惇忠が初代所長になった。富岡製糸場は官の経営であったので営業成績は芳しくなかったが。製糸の近代化に民間人の多くが貢献した。

 次に、王子製紙を1873年に設立(印刷業による紙幣・債券・新聞・雑誌の刊行のため、洋紙の国産化が不可欠)したが、技術上(品質)の問題解決に苦労し事業が軌道に乗るまでには長く時間がかかったが、藤原銀次郎を経営者に迎え合理化を進め、第一次世界大戦に洋紙需要が一気に拡大した。1873年に第一国立銀行、1875年に商法講習所が設立して東京商科大学へと昇格した。東京養育院(公的福祉施設)は1872年に東京市内の生活困窮者を保護する目的で創設された。公金を使い困窮者を助けるのは怠け者を増やしかねないという反対論が根強かったが、栄一は論語の教えから政治は仁を行うことが肝要であると訴え続け、多忙の中でも入院者との面談をした。

 清水組(清水建設)については、1881年に二代目喜助が死去した後、僅か6年に養子の満之助が死去したため、未亡人や支配人が継いだが、栄一に相談するよう二代目の遺言があったので、支配人制度の明確化と「営業規則」を整えた。そして清水家家法が整えられ、同族会議を最高決定機関にした。後に建設業のトップに地位を築く。

 1878年に株式取引所条例が制定されると、東京株式取引所の設立を出願し免許を受け取った。銀行業務にとって取引先の信用状態の把握が最も重要である。日本経済の発展とともに企業数も増加したため、1896年「東京興信所が設立された。

 1877年、大隈重信から商法会議所設立の相談を持ち掛けられて、チェンバー・オブ・コマースを導入することを考え、政府から1000円の補助金を得て、東京商法会議所を創設した。理由は、明治日本が掲げた目標の一つ、殖産興業を促進するため、二つ目は条約改正交渉を促進するためであった。

 変遷を経て1923年に東京商工会議所に改称するまでの27年間、栄一は会頭を務めた。

 1876年に国立銀行条例を改正し、全国で153の銀行が誕生した。(大地主や商人が加わり、栄一の提唱する合本組織による銀行が全国に登場した)東京海上保険は、農村部から都市部への穀物販売のための運送に危険が生じた場合、保険で回避する必要性があったので華族出資団に創立を強く勧め1879年に設立された。1900年に保険業法を制定し、保険業界の健全化を図った。第一次大戦中に貿易の進展と海運業の発展に伴い、大きく除要は伸び発展し、東京海上火災保険(株)に商号を変更した。

③40代

 グラント将軍夫妻(第18代米国大統領)が日本を訪れ、民間の接待役代表として外国からの賓客をもてなす組織や施設の必要性を痛感したことから1893年に貴賓会を設立し帝国ホテル内に事務所を構えた(1890年有限責任東京ホテルを設立)。1912年JTB(ジャパンツーリストビュロー)に観光旅行を促進する業務が引き継がれた。

 西南戦争後の1879年、綿布の輸入量が増大したため紡績会社の設立を藤田伝三郎と松本重太郎ら華族21名と企画した。会社経営の基本理念は「順理則裕」、合理的・論理的に考え行動することはすなわち豊かなりの意味である。この会社の中心的人物である山辺は英国滞在中であったので、栄一が資金援助して、紡績会社の経営や機械工学、紡績業の実務を学ばせ、1882年支配人となり後に社長に就任した。1931年、大阪紡績は三井紡績と合併して東洋紡績となる。

 栄一はヨーロッパ歴訪したときに、鉄道が大量のヒト・モノを移動できることに、この鉄道整備が経済発展の基盤になることを痛感した。1881年に日本鉄道会社が設立された。近代日本の鉄道経営にとって、国有化には反対して民営化を貫こうとしたが、1901年の金融恐慌時に、東京商業会議所会頭の立場から、鉄道会社の倒産を防ぐため政府に国有化を依頼した。さらに日露戦争後は政府の経済への干渉が拡大し、大陸経営をもくろむ軍部勢力の強大化により民営化はあきらめざるを得なかった。

 貿易立国を目指す近代日本にとって、海運業の発展は不可欠であったため共同運輸会社を設立したが、岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社との間で運賃値下げ競争が起こり共倒れの危険性が出たため、政府が仲裁に入り1885年、日本郵船会社が誕生した。

インフラ整備に尽力した栄一は、近代化のシンボルである電力(電灯)・ガス・水道事業にも関係している。1885年に栄一と浅野総一郎が中心となり「東京ガス」を設立、1893年に商法施行により東京ガス(株)に変更した。東京電灯会社は、大倉喜八郎や横山孫一郎らとともに発起人となり1882年に設立出願し、1886年に開業した。

 栄一は、女子教育にも関わり、国際化に対応できる知識ある良妻賢母に育てることを期待して寄付活動と講演等により女子教育を財政面から支えようとした。1888年、開校された東京女学館の目的は、諸外国の人々に臆せず交流できる国際性を備え、知性豊かで気品ある女性を育成するためとある。こうした思いは、伊藤博文・福沢諭吉・大熊重信など当時の政財官、教育界の指導者たちが共有するものであった。栄一が亡くなる直前に孫娘たちに「女は才よりも愛を、知識よりも情けを身につけることが大切である」と伝えたそうである。

④50代

 鉄鋼や造船という重工業は、三菱・住友が有名だが、非財閥系の企業である東京製綱・日本鋼管・東京石川島造船所・秩父セメント等の経営に深く関与していた。1893年、東京石川島造船所の会長に栄一は就任し浦賀に大規模なドッグを建設、第一次世界大戦による特需があり経営は軌道に乗った。1896年、農工業改良のための長期融資目的に日本勧業銀行法が制定され、翌年、日本勧業銀行が設立された。1890年と1898年の二度にわたる経済恐慌により国内資本が脆弱であったため、政府は外資導入や証券市場の流動化を図り潤沢且つ安定した産業資金の調達に、1900年、日本興業銀行を設立させた。農村出身の栄一は、人口増加に伴う食糧問題解決と地方振興の観点から第一次産業を支援した。東北や北海道の将来性を高く評価して、札幌麦酒・北海道製麻などの創立で道内との接点があり、農業振興を民間主導の事業として展開すべく尽力した。1897年、渋沢喜作が社長になり十勝開墾合資会社を設立した。また、埼玉では東京で学生生活を送る者たちが増え、埼玉学友会が結成され、その寄宿舎と運営する育英会創設のため、主催者から設立資金の支援を求められ応分の出資をして尽力する。

⑤60代

 東アジアをめぐるアメリカとの利害関係や貿易・移民問題などが様々に表面化してきたため、日米の実業家たちが民間の立場から解決しようとする目的で互いに実業団を構成した。   日本は東京・大阪など大都市の商工会議所で活躍する約50名の民間人中心とした団体が構成 され、米国は54名の商業会メンバーが構成されて、1908年と1909年に相互訪問した。日本では栄一を団長とする「渡米実業団」と呼ばれ、産業・経済・政治・社会福祉・教育施設期間等を視察して歓待を受ける。

 当時、第27代大統領のウィリアム・タフト、発明王のトーマス・エジソン、鉄道王ジェームズ・ヒルらと各階の実力者と会見している。民間組織での訪問であったが、後に経済界同士の交流が図られ、将来に繋がツパイプづくりができた。

 1902年、東京商工会議所会頭として米国を訪問した際に米国における北米移民の差別的な雰囲気を感じた。1906年日本人学童の隔離問題、日本人移民排斥運動が北米太平洋沿岸に広がり深刻な危機を危惧した栄一は、米国の各階有力者を通じて移民問題鎮静化に尽力するが、1924年「排日移民法」が米国で成立している。北米への移民が制限されて中南米の豊かな土地と資源を持つブラジルを、過剰人口対策のみならず将来性ある貿易相手国として注目していたが、農業労働力不足から日本人移民の需要が強くなったことで、ブラジル移住事業に国家を上げて取り組んだ。その結果、日本人移民はブラジル社会で受入られ、成功を収めた。

 医療については、多くの国民が医療を受けられるよう東京養育院や医療福祉機関に対して多額の寄付をした。「聖路加病院」、「済生会」、「日本結核予防協会」、「中央盲人福祉協会」、「日本赤十字社」などに関与している。

 「帝国劇場」については、大倉喜八郎が音頭を取り1911年に建設する際に発起人として加わっている。パリのオペラ座を鑑賞した際に、日本にもこうした文化芸術活動に関係したいとの思いがあった。1923年の関東大震災で焼失したが、翌年再開して、大衆文化時代の幕開けになった。

 栄一は、大日本製糖の相談役だったが、1909年、経営を巡る混乱、政界工作の摘発、不正経理などを巡る「日糖事件」により社長の酒匂が自殺したため新聞雑誌などで多くの批判を受けたため、責任を取り60余りの企業の相談役や監査役などの役職を辞任した。その後は、もっぱら公益事業に尽力することになった。

⑤70代 

 孔子を尊敬する栄一は、日中との経済連携を強く希望して、中国内の経済インフラ整備を行うため、1907年日清汽船など中国航路の創設に協力、1913年に日本滞在中の孫文と会談し、中日実業(株)の日本代表になった。しかし、日本が21ヶ条要求を突き付けてから中国国内で排斥運動が広がった。日中経済関係の将来を危惧した日本経済界は1920年、日華実業協会を発足、その会長に栄一が就き、経済界の首脳が幹事に名を連ねた。

「理化学研究所」との関係は、1913年に高峰譲吉が科学研究所構想を持ち掛けてきたのが始まりで、将来の理科学分野で独創力を伸ばすため研究所の設立が必要との判断で1915年創立決議、1917年に設立した。優秀な科学者を輩出しており、鈴木梅太郎、寺田寅彦、中谷宇吉郎、長岡半太郎、湯川秀樹らがいる。

⑥80代

 1923年のMg7.9の関東大震災は、関東地方の広範囲に甚大な被害をもたらしたため、内務大臣の後藤新平らに救助・救済を依頼され財団法人協調会を中心に、収容所・炊出場・情報案内所・掲示板・臨時病院を設置し、罹災者を助けた。そして、救護・復興のための組織を提案し「大震災善後会」を結成、寄付金募集と資金配布先調査を開始した。当時の山本権兵衛首相から復興に関する内閣諮問機関「帝都復興審議会」委員の要請を受け、都市計画復興と共に商業都市としての東京の発展のため港湾整備が重要であるとの立場をとった。

 1926年、ハワイや北米太平洋岸で東洋移民に対する排斥運動が盛んになったため「太平洋問題調査会(日本IPR)」を設立、渋沢栄一が評議委員会会長、井上準之助が初代理事長に就任した。

 第一次大戦後には数多くの国際交流団体が誕生するが、1932年に満州事変が勃発した以降、各国のナショナリズムが強くなり、新渡戸稲造らの国際主義者の言論も、日本の中国政策擁護が多くなった。栄一の外遊(視察)は、中国を3回、韓国を1回訪問して日中経済の緊密な関係や日朝間の貿易を進めることであった。欧州・米国訪問(パリ・欧米)においては、米国社会の急速な経済発展に魅了されている。実業界引退は1929年である。

    

★(追記)思想

 道徳経済合一説(論語と算盤):道徳と生産殖利とは元来共に進むべきものと述べている

 官尊民卑の打破、合本法と合本主義(公益の追求を事業の目的、賛同する人々から資金・事業・人を募り、経営に当たらせ経済活動を通じて利益を上げ、国家社会を豊かにするという考え)   以上

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