「土地と財産」で読み解く日本史

1、要旨

 日本は古代から現代に至るまで、世界でもまれなくらい貧富の格差が生じなかった。そのため、差別された経験をもつ日本人は少ない。その要因のひとつが「土地と財産」にあると大村大次郎がその著者「「土地と財産」で読み解く日本史」に書いている。以下にその抜粋を記す。

2、古代日本に誕生した超強力政権

 日本で最初に誕生した超強力な中央集権政府は「大化の改新後」の大和朝廷である。実に1400年近く前のことである。「大化の改新」を簡単に説明すると、645年に朝廷内で勢力を振るっていた蘇我入鹿を中大兄皇子・中臣鎌足らが暗殺し、国の制度を一新したというものである。大化の改新の主な改革は次の通りである。

・豪族などによる田畑の私有を禁止し、すべて国の領地とする

・田畑を民に貸し与え、民は租庸調の税を払う

・重要な役職は世襲制だったが、これを廃止し有能な人材を充てる

・戸籍を整備する

日本史上、土地の私的所有を認めなかった政権というのは、この大化の改新後の大和政権だけである。大化の改新以前は「氏姓制度」という社会システムになっており、包括的・効率的に税を徴収できなかった。この時代には朝鮮半島の南部(任那国)は日本の支配下にあった。618年に中国大陸で唐という大帝国が誕生した。その唐の侵攻を食い止めるには、対抗できる軍備が必要になった。そのために大和朝廷は「国土の国有化」が必要だったのである。

朝鮮半島で勢力を失うと本土まで攻め込まれるかもしれないという危惧を持っていた。その危惧が「大化の改新」の原動力になったのは間違いない。また、この当時の武器として鉄が使われていたが、その鉄を朝鮮半島でつくっていた。

 大化の改新は、豪族などが支配していた土地を没収するとともに、それを農民に貸与して効率的に税をとるという目的も持っていた。いわゆる「班田収授の法」である。「班田収授の法」は古代中国の「均田法」をモデルにしたと言われている。中国古代の「均田法」は国家が田地を一括管理して農民に支給するのではなく、農民が所有している田地の「広さの調整」程度のものであり、しかもその実務手続きは各地の豪族に任せていた。しかし、日本の「班田収授の法」の場合、国家が田地を一元管理し、農民に班田(貸与)されていた。また実務手続きも、中央政府から派遣された国司が全権力を持ってあたっていた。つまり、古代中国が表面的にしか実行していなかった制度を、古代日本は本気で実行した。そのため、古代日本ではかなり公平な社会が出来上がった。この時につくられた社会思想が、現代の日本人気質にも大きく影響していると思われる。

 663年、唐と新羅の連合軍が、日本と同盟を結んでいた百済に進撃してきた。日本・百済の連合軍と唐・新羅の連合軍が朝鮮半島の白村江において激突することになった。「白村江」の戦いである。その結果、百済は滅亡し、日本は朝鮮地域での勢力を失ってしまった。しかし、唐の連合軍の侵攻は日本列島にまでは及ばなかった。大和朝廷はこの白村江の戦い以降、朝鮮から手を引き平和外交に徹した。そして遣唐使を派遣するなど、唐とも良好な関係を築いた。

3、墓穴を掘った平安貴族たち

 国家がすべての土地を管理するという班田収授の制度では、人々の暮らしはそれなりに安定するが、それ以上の発展性がない。そのため、班田する田地の確保がままならなくなっていった。そこで723年に「三世一身の法」が施工される。「三世一身の法」とは新しく田を開墾した場合、自分を含めて三世代まで開墾田の私有を認めるというものだった。この「三世一身の法」により「土地の私有禁止」の原則が崩れることになった。

 735年~737年に天然痘が大流行した。この打開先を神仏に求めた。741年聖武天皇は日本中に国分寺・国分尼寺をつくることを命じた。そして743年に東大寺の大仏の造立を決定する。その財源として考えだされたのが「墾田永年私財法」なのである。開墾できる土地の面積に制限を設けたが、寺社には課せられていなかった。そのため寺社の私田は爆発的に増加することになった。そして、土地の売買が8世紀ごろからなし崩しに解禁され、公地公民制は100年程度しか持たなかった。

 天然痘の被害で墾田永年私財法をつくってしまった大和朝廷に、さらなる困難が押し寄せる。蝦夷地問題である。蝦夷地というのは北海道だけでなく、朝廷の統治圏外にある地域のこと。特に東北地域の蝦夷に、朝廷は悩まされ続けてきた。大和朝廷に下ることは、蝦夷の人々にとってはこれまで払ってなかった税を払うことになるので、反旗を翻すことが多くあった。その最大のものが「38年戦争」である。38年戦争で敗れた蝦夷の人々は強制的に日本各地に移住させられたが、与えられた田地は荒れ地で食うに困ったので盗賊化した。そのため各地で自衛のため武装する者たちが増えていった。豪族たちは家人に武器を与え訓練を施した。それがやがて武家に発展していくのである。

 平安時代になると私的農地である「荘園」が爆発的に拡大していった。これは戸籍調査が行われなくなったため、公地や公民の所在があいまいになり、そのあいまいな公地が荘園化されてしまった。戸籍調査が行われないため、800年代後半には、納税者の数が奈良時代の三分の一に激減した。平安時代には「国司」という官職が大きな力を持つようになる。国司とは、中央政府から各地に派遣され、行政や徴税業務を行う役職のことで、中級貴族のポストだった。この国司たちが腐敗化、門閥化していく。明確な戸籍がないので、徴税額などが国司の判断で決められるようになっていった。平安時代の後半には国司の中から軍事力を持つものが現れるようになった。これは戸籍があいまいになったため律令で決まられた徴兵が難しくなってきたため、徴兵のやり方も国司に任されるようになったためである。そして軍事を専門とする公家・貴族が現れた。その中に平氏や源氏もいた。

4、源平合戦は国家体制をかけた戦いだった

 平清盛と源頼朝には国家プランに明確な違いがあった。清盛は朝廷のシステムの中での栄達と権力掌握を目ざしていた。一方、源頼朝はこれまでの朝廷システムではない新しい国家システムの構築をもくろんでいた。国家が管理していた国土を武家に解放しようとした。

 源平合戦のどさくさに紛れて朝廷の権限を奪取して成立した鎌倉幕府だが、この政権は非常に権力基盤・財政基盤が弱かった。幕府というのは臨時司令部という意味である。

鎌倉幕府は日本全国を統治する中央集権的な政府ではなかった。日本全国の徴税権・行政権までは持っておらず、各地の領主が徴税・行政を行い、幕府が持っているのは監督・仲裁をする権利だけだった。

5、応仁の乱

 室町幕府は武家の足利尊氏が武力で切り開いたものなので、軍事的に強かったように思われているが、各地の武家を寄せ集めて勝利したのであり、直轄する軍は驚くほど小さなものだった。室町時代末期には財政破綻状態にあった。足利将軍の臣下であるはずの山名家や細川家の方がはるかに大きな所領を持っていた。これでは足利将軍が全国の武家に睨みを利かせることはできない。それが全国各地での紛争や乱を招き、さらにエスカレートしたものが応仁の乱だった。

6、大地主だった中世の寺社

 朝廷が弱体化して武家政権が誕生し、その武家政権も財政基盤の弱さからフラフラしている時代に、第三の勢力ともいえる巨大な財力を持つ団体群が生じていた。寺社勢力である。平安時代から戦国時代にかけて、寺社勢力は非常に大きな力を持っていた。寺社はその広大な荘園からの収穫物を元手にして、悪徳な商売を手広く行っていた。その悪徳商売とは高利貸しである。なぜ寺社が金貸し業を営んだのかというと、金を借りたものが返さない場合「罰が当たる」と言えば、借金者が恐れおののいたのである。

7、信長の国家改造計画

 信長は戦国時代の農地のシステムを簡略にして、中間搾取を極力減らし、農民の負担を大幅軽減した。年貢率を収穫高の3分の1に定めた。これは当時としてはかなり安い。江戸時代でも収穫高の4割から5割が年貢として取られていた。

当時、絹・酒・麹・油などの重要な商品は寺社によって牛耳られていた。室町幕府の財政基盤が弱かったのもこれが要因のひとつだった。信長はこの問題を解消するために、寺社を焼き討ちにしたり、楽市楽座をつくったのである。

信長の土地政策でもっとも着目すべきは、「国替え」である。家臣に対して頻繁に「国替え」を行った。国替えというのは、一旦家臣に与えた所領を没収し、他の土地を与えるということ。信長の思想は「武家は土地の一時的な管理者にすぎない」というものだった。本能寺の変の直前、信長が明智光秀に国替えを命じた。「丹波・近江の代わりに出雲・石見を与える」というものだった。丹波・近江の治政に心血を注いでいた明智光秀にとって、国替えは耐え難いものだった。

8、豊臣秀吉の直轄領は徳川家康より少なかった

 秀吉は基本的に信長の政策を踏襲している。「太閤検地」「大阪城の築城」「大判小判の製造」など、秀吉の行った政策の多くは、信長がすでに企画進行させていたものだった。

信長の失敗の轍を踏まないように「直轄領」を持っていた。だが、かといって、信長の土地政策を捨て去ったわけでもない。秀吉も頻繁に家臣の国替えを命じている。無茶な国替えは行わず、国替えする際はほとんどが加増になっていた。

豊臣政権は、あまり財政基盤が強くなかった。直轄領が狭小なのである。1598年(豊臣家の最盛期)の時点で、豊臣家の直轄領は222万石であるが、徳川家康は250万石だった。

自分自身のバックボーンがまったくなかった秀吉は、自分の上司・同僚・部下・仲間をうまく引き入れなくてはならなかった。そのためには過度な褒美を与え続けなければならなかった。秀吉は天下を統一したにもかかわらず、直轄領はあまり多くないというジレンマを抱えることになった。もうこれ以上分け与える領地はない。今よりさらに直轄領を削ると、家康との差はさらに開いてしまう。そこで朝鮮と明を手中に収めれば、土地問題など一気に解決してしまうと考えた。

9、徳川家康は史上最大の資産家だった

 家康は直轄領だけで400万石あり、徳川家全体で800万石あった。これは日本の領土の25%にあたる。さらに戦国時代から江戸時代前半は、良質な金銀の鉱山が相次いで開発された時期であり、日本で最も金が採れた時代だった。家康はその大量の金を自家に溜め込んだ。純金にして約42トンになる。圧倒的な軍事力・経済的優位により、江戸時代は250年以上も続いた。

10、公平だった江戸時代

 江戸時代は世界史的に見ても稀有な時代だった。250年以上もの間、内乱らしい内乱も起きず、財政状況もそれほど逼迫しなかった。たとえば中世から近世にかけてのヨーロッパの国々は、戦争や内乱ばかり起きていた上に、国王が借金で首が回らなくなり、債務不履行を起こすことが多々あった。

また江戸幕府は貨幣の鋳造権を独占した。いわば中央銀行の役目も持っていた。以前よりも金属の品位を落とした貨幣をつくり、その差額で収益を得るということも行われた。

江戸時代の年貢は現実の収穫量を検討すると三公七民くらいだった。どこの農村にも「隠し田」と言われる、簿外の田があった。この隠し田には年貢はかからなかった。また江戸時代には、一部の富農への農地の集積もそれほど生じていなかった。江戸時代末期でも、小作地は全農地の30%程度にすぎなかった。農民の生活がそれほど苦しくなかったということは、江戸時代に伊勢神宮を参拝するお伊勢参りなどが大ブームになったことからも推測できる。また農閑期に農民が近くの温泉地に湯治に出かけることも、普通に行われていた。江戸時代の農民同士も平等だった。その証左として「割地」というものがある。割地というのは村落内の農民が、耕作する農地を定期的に交換するという制度である。農地というのは、その位置関係によって収穫量に大きな差がでる。日光の射し具合や水利によっても違ってくる。江戸時代の農民には土地の「所有権」「耕作権」の概念は薄く、「村落の土地は農民全体の共有財産」という意識があった。江戸時代の年貢は「村落全体でいくら」という村請制を採っていた。

町民は、農民よりさらに生活が楽だった。特に江戸の町民には税金が課せられてなく、非常に恵まれていた。武家の生活は苦しかったが享保・寛政・天保という改革時には「武家の借財を帳消し」にした。

11、明治維新は農地解放だった

 欧米に侵略されない強い国をつくるには、莫大な資金が必要だった。明治新政府は「中央集権政権」として、全国から税を徴収したかった。そのために「廃藩置県」をした。

明治維新の土地改革の目玉は「地租改正」だった。幕府や藩から取り上げた日本全国の領地を、その土地を耕作していた農民に分け与えた。農民は耕作地の所有権を手にし、その耕作地の売買も自由になった。農民は農地を売ってほかの職業に就くこともできるようになった。また、農民が自分で農作物を決められるようになった。この結果、日本の農業は大躍進した。

明治政府には大きな課題があった。それは武士に支給していた「秩禄」を廃止することである。藩は廃止しても、武士への財政支出は残っていた。1876年に秩禄を廃止し、金禄公債を配布した。つまり、秩禄を廃止する代わりに、少しまとまった金を武士に与えた。

旧武士のうち、明治政府で官職にありつけたものは全体の16%にすぎなかった。西南戦争をはじめとする旧士族の乱も、この秩禄廃止が要因の一つだった。

明治維新での最大の被害者は武士である。そして、その次に被害を被ったのは商人だった。最たる政策は「借金棒引き政策」である。幕府や諸藩が商人から借りていた金を、棒引きにされてしまった。例として、大阪の豪商34家のうち23家が破産、明治以降も勢力を保持できたのは9家にすぎなかった。

12、混沌の戦前社会

 明治時代は、全国民がかなりフラットな資産状態でスタートしたが、明治も中盤以降になると新たな特権富裕者が台頭してくる。「財閥」である。三井・三菱などの財閥は、欧米からの経済侵攻を防ぐためにつくられた「商社」が起源となっている。欧米からの文物を取り入れるにはお金がいる。そのお金を稼ぐために輸出が必要だった。日本の生糸の輸出は外国商人に頼っていた。それをいいことに外国商人たちは、横暴な商売をしていた。この事態に、日本政府も黙って指をくわえていられなくなり、生糸商人たちが、三井・三菱・渋沢栄一などの支援のもと、横浜に「連合生糸荷預所」をつくった。そしてなんとか外国人と対等に貿易できる術を探った。そこで編み出されたのが「総合商社」である。最初にできたのが三井物産である。この三井物産に対抗するようにつくられたのが後の三菱商事である。

財閥は明治政府の保護を受けることによって成長したが、その後も政府との癒着は続いた。

財閥は昭和初期になると大変な財力を持つにいたった。昭和2年の長者番付で1位の岩崎久彌の年収は430万円(現在の貨幣価値で500億円)だった。財閥に勤めていたサラリーマンの年収は5000万円(現在の貨幣換算)程度でできたばかりの高級住宅街「田園調布」に住んでいた。その一方で貧困にあえぐ人も増えていた。戦前は貧富の差が激しく都市のいたるところに貧民街があった。この貧富の格差が、戦前の日本を戦争に駆り立てた要因のひとつである。日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦と戦争をするたびに好景気となり、経済成長をしてきた。その恩恵は庶民にも大きいものがあった。戦争は貧しい人々の働き口をも増やした。そのため満州事変が起きたときなどは、国中がお祭り騒ぎになった。

13、「財閥解体」が生んだ高度成長

 戦後のGHQの占領政策において、大きな柱のひとつが「財閥解体」だった。14財閥の資産を調査したところ約16億円(現在価値10兆円)で内訳は株券13億円、不動産3億円だった。まず株券16億円を市場で売却させ、そのお金は財産税によって徴収した。また財閥家の者達は財閥グループが解体された後も、かつての支配企業の役員に就任することが禁止された。そして財閥の司令塔ともいえる「持ち株会社」を禁止した。解禁されたのは1997年のことである。財閥解体とともに、富裕層に壊滅的な打撃を与えたのは「財産税」だった。資産1500万円以上持っている者は9割が税金として持っていかれた。皇族や華族も広大な土地を持っていたので、この時に没収された。100万円以上の資産家にも70%の高税率が課せられたので、街中にちょっとした土地を持っている人も対象になった。

 もうひとつのGHQの占領政策の目玉は「農地改革」だった。この時の小作地は46%で

農地の半分以上は各農家の自作地だった。今回の農地改革はこの46%の小作地を国が買い取り、小作人達に安く販売するというものだった。この時、急激なインフレになっていたので、小作人が土地代金を支払うころには貨幣価値が大きく下落しており、無料のような安さで土地を手に入れることができた。

 GHQが財閥解体や財産税課税を行った目的は、日本を二度とアメリカと戦争をしない国にすることと、アメリカ軍のアジア方面の駐留経費を日本に負担させることだった。この当時、アジアは貧しく駐留経費を出せる国は日本しかなかった。この駐留経費は莫大だった。昭和28年当時で5100億円(日本の国家予算1兆円)で国家予算の半分が駐留経費だった。

GHQの政策で、財閥に集積していた資金や資源が社会全体に配分されるようになった。有能な人材もいろいろな企業に分散するようになった。また戦後の日本には為替の恩恵もあった。1ドル=360円に固定されていた。これは円の実力よりもかなり安かった。しかも欧米に比べて人件費が非常に安かったので、日本製品は強い競争力を持っていた。その結果、昭和40年代には世界の経済大国にのし上がった。日本が経済大国になっていくにつれ、人口の都市圏への集中が生じるようになった。特に東京への人口集中はすさまじいものがあった。日本人の9人に1人が東京在住者だった。

14、なぜバブルは崩壊し、格差社会が再来したのか

 日本では戦後一貫して土地の値段は上がり続けていた。土地の価格が上がれば、担保価値も上がるので銀行はさらに多額の融資をする。そして日本の企業は多くの土地を持っているので、莫大な資金力を有することになった。その巨大なマネーでアメリカの不動産を購入したり、企業を買収したりした。三井不動産がエクソンビルを、三菱地所がロックフェラーセンターを購入した。アメリカの豊かさを象徴する建造物が日本企業に買収されたのは、アメリカ人にとってかなりのショックだった。また、ソニーがコロンビア映画を買収したことも、アメリカ人に大きな衝撃を与えた。1980年代後半にアメリカは日本に対して、「日米構造協議」という会議の開催を働きかけてきた。これはアメリカが日本に対して問題点を指摘するというものだった。その要求に対して、日本は非常に中途半端な土地改革をした。それは土地高騰を防ぐために、日本銀行が融資の「総量規制」というものを行った。これは銀行が企業に貸すお金を制限しようというもの。その結果バブルだけがはじけた。

 日本はバブル崩壊後「経済の活性化のため」と称し、大企業や富裕層の大減税を繰り返した。バブル期には最高70%だった所得税は2006年には33%にまで引き下げられた。2003年には株式投資の税金は分離課税15%でいいということになった。株価が上昇すれば、経済が上向いたように見える。だから投資家に大減税を行い、株の取引きをしやすくした。その結果、2000年代の日本には大投資ブームが起きた。株価も若干上がった。そして日本経済は名目上、好景気に転じたが、それを実感できたのは投資家だけである。多くの人にとって、経済的に楽になったという実感はない。その後、リーマンショックによって、日本経済はまたもや大不況に突入した。

 日銀の発表によると、現在日本では1800兆円の個人金融資産がある。バブル期の1990年では1017兆円だった。これは金融資産のみで、不動産などの他の資産は含んでいない。日本でこれほど個人金融資産が膨れ上がっているのは、国民全体の資産が増えているからではない。2016年の100万ドル以上の資産を持っている日本人は282万人だった。前の年より74万人増加している。この激増している億万長者の正体は「株を大量に持っている人」である。日本の上場企業の配当金が10年前に比べて2倍に増えている。日経平均株価は2012年から2018年の間に2倍以上になった。近年、資産が激増した人で最も多いパターンである。その一方で資産がない人も激増している。1987年には貯金ゼロの世帯は全体の3%にすぎなかった。しかし、貯金ゼロの世帯は増え続け2017年には30%にも達している。この最大の原因は90年代以降の日本経済の失策である。この20年間一貫して賃金が下げられた国は、先進国では日本だけである。「億万長者」と「貯金ゼロ世帯」が同時に激増しているということは、絵にかいたような格差社会が広がっているということである。この格差拡大の要因の一つが「消費税」である。消費税というのは、所得が低い人ほど負担割合が増す「逆進税」である。消費税が貯蓄ゼロ世帯を増やしたといっても過言ではない。

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